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新宿山吹高校(2019年8月24日、磯田航太郎撮影)
 「日本自治委員会」はどこから来たのでしょうか。日本自治委員会は、2019年5月、都立高校2校、大阪市立高校1校の自治委員会が全国連合組織として結成した団体です。その源流は、都立新宿山吹高校(以下「山吹高校」という。)での校内新聞への検閲・弾圧にありました。今回からは日本自治委員会の歴史について振り返っていきます。

 2015年11月、当時山吹高校在学中だった平松けんじは、自身が所属していた新聞部の顧問・黒柳修一(公民科教諭)から「新聞部長を破門した」という話を聞き、即座に新聞部の掌握と刷新に着手しました。年1回程度の低頻度発行で、配布部数も10部程度だった「山吹新聞」を廃刊し、新たに「YAMABUKI JOURNAL」=写真=を創刊。同紙では学校内のニュースのみを取り上げる編集方針をとり、生徒会内で談話コーナー&ラウンジへの規制導入の動きが起きていることから体育館の隙間に携帯電話が挟まれてしまったことまで硬軟合わせた報道でたちまち部数を急増させ、創刊号(2015年11月1日)は、100部があっという間に完売しました。その後も第2号(2015年12月15日)では200部、第3号以降は200部程度が常に読まれていました。
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検閲の跡を生々しく残した紙面
 「YAMABUKI JOURNAL」は、校長・副校長を批判するコラムの掲載も辞さない今時の学校新聞としては珍しい「忖度せずに戦う新聞」でしたが、2016年2月、第3号で早速、学校側と衝突します。当時山吹高校は「不登校生徒の救済」として設立された開校経緯を踏まえ、入試での内申点が極めて低く抑えられていました(当日試験点20に対し、内申点3の比率)。しかし2016年、舛添要一東京都知事(当時)の下で行われた都立高校入試制度改革で、都教育委員会は、入試での内申点の比率を3パターンに限定。山吹高校も例外ではなく、当日試験点7に対し、内申点3の比率に大幅に変更されました。この変更は、山吹高校教員からも不満の声はあったものの、都教委のトップダウンで強行されたのでした。平松はこの入試制度改革に着目し、両論併記の形で報じました。しかし先に紙面を確認した組合の執行委員だった主幹教諭をはじめ、複数の教員が記事を問題視。組合幹部の教員はあろうことか「YAMABUKI JOURNAL」を配布場所から無断で回収しました。その後、新聞部顧問・黒柳修一のもとに複数の教員が集まり、集中砲火を加えました。こうした経緯もあり、「YAMABUKI JOURNAL」第3号の記事2本の削除を余儀なくされたのです。
 その後も2016年5月、6月と順調に「YAMABUKI JOURNAL」は発行されましたが、生徒会への取材や報道内容をめぐって、生徒会顧問教諭らと対立を深めていきます。2016年7月、生徒会が新聞部に対して「要望書」なるものを送り、圧力をかけようとしたため、「YAMABUKI JOURNAL」はその内容を報道。紙面に掲載しようとします。しかし事情を察知した生徒会顧問が新聞部顧問の黒柳、小沢和晃主任教諭を呼びつけ、事前検閲に踏み切り、記事を削除させました。さらに2016年9月、生徒会会則が全校生徒に全く公開されていない現状を社説で取り上げたところ、発行を差し止められる事態に発展しました。生徒手帳がなく、IDカード形式の生徒証が採用されていた山吹高校では生徒会会則が生徒の目に触れる場所になく、配られてもいませんでした。こうした現状は「法の支配」や生徒会の運営上問題なのではないか、と社説に記したのです。
 発行差し止めから1か月、業を煮やした平松は、遂に黒柳、小沢両顧問に直談判し、発行を強く求めました。この際、平松の意向を聞いた小沢は、藤田豊副校長(当時)=現・田無高校長=に強い口調で叱責されており、既に検閲の主導権が新聞部顧問ではなく、藤田の手にあることは明らかでした。平松は早速藤田に直談判し、論旨を損なわない範囲において表現を調整することに合意しましたが、結局、社説は検閲され、検閲された跡を残すことすら許されませんでした。
 もはや「自由に新聞を書く」ことはできなくなったのです。山吹高校の報道の自由は死んだこの日から「戦い」が始まったのです。(上原瑞貴・日本自治委員会副議長)
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